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記事提供:動物医療発明研究会
インタビュアー・構成・執筆 伊藤 隆
動物医療発明研究会 広報部長/獣医師
JVM NEWSに日本の競馬界を支える獣医師を紹介しています。
第1回目から4回目までは日本中央競馬会(以下JRA)に勤務の獣医師、5回目は日本の競馬界に貢献した生産者のひとつである社台ファームの獣医師、6回目は帯広のばんえい競馬場内にある合同会社アテナ統合獣医ケアBan'ei競走馬診療所の代表獣医師、7回目は全国的な規模で展開している乗馬クラブクレインの馬を診療している有限会社大和高原動物診療所の関東診療所に勤務の獣医師のインタビュー記事を掲載しました。第8回目は視点を海外に移し、麻布大学卒業後単身ドイツに渡り馬の臨床獣医師として活躍されている佐藤俊介先生を取り上げました。第9回目は地方競馬を注目し、「東京シティ競馬(TCK)」の愛称で親しまれている大井競馬場特別区競馬組合に勤務されている獣医師の鈴木真結子先生にインタビューを実施しました。
第8回目の記事に対して「海外で馬の臨床獣医師の先生を紹介して欲しい」との要望があり、第10回目の今回は、佐藤俊介先生から紹介いただいた、日本では「赤毛のアン」で有名なカナダのプリンスエドワードアイランド大学獣医学部(写真1A)で馬の外科レジデント(専門科研修医)として勤務している中前陽子先生にお話をうかがいました。(取材日:2024年8月19日)
Q1.獣医大卒業後、なぜ日本でなくカナダに留学したのですか?
私は学生時代に外科の研究室に所属しており、馬の外科診療に関わる機会が多くありました。そのため、学生時代から将来は馬の外科医になりたいと決めていました。
獣医学部5年生の夏に北米の大学(コロラド大学、カリフォルニア大学、ペンシルバニア大学)を訪れ、そこで専門医を育てるレシデントプログラムのことを知り、将来はこのレシデントプログラムに入り馬の外科専門医になりたいと思うようになりました。残念ながら、大動物のレジデントプログラムは日本には存在しなかったため北米に渡ることを決意しました。
大学卒業後、2018年にプリンスエドワードアイランド大学に1年間の長期実習に訪れ、その翌年に正式に有給のインターン(研修医)として働くことになりました。その後、カナダのゲルフ大学、ケンタッキー州にある私立病院ハグヤードで外科のインターン(写真1B)をした後、今いるプリンスエドワードアイランド大学で外科のレシデント(写真1C)を始めました。
外科のレシデントの応募条件として、最低1年間のインターン経験が必要とされていますが、最近ではほとんどの応募者がレシデントのポジションを獲得するまでに2~3年のインターン経験をしています。
インターンは日本の医学部でいう、初期臨床研修医と同じで、全ての臨床科を学ぶ、短期(1年間)のプログラムのことです。レシデントとは日本の後期臨床研修医と同じで、1つの専門科に所属し、専門医のもとで臨床を行い、3年のレシデントプログラム終了の後には各科の専門医となることができます。
Q2.プリンスエドワードアイランド大学の勤務においてカナダの獣医師免許は必須ですか?
現在いる病院ではEducation Licenseの元で診療を行っております。英語のスコアと以前働いていた州からの推薦状でこのライセンスを取得しました。大学病院内での診療のみ許可されています。
Q3.カナダで特に馬に力を入れている獣医大学を教えてください。
カナダには5つの獣医大学がありますが、全ての大学が馬に力を入れていると言えます。
5つの獣医大学は以下の通りです。
- The Atlantic Veterinary College(プリンスエドワードアイランド大学内)
- Faculte De Medecine Veterinaire(モントリオール大学内)
- The Ontario Veterinary College(Guelph大学内)
- The Western College of veterinary Medicine(サスカチュワン大学)
- University of Calgary-Faculty of Veterinary Medicine(カルガリー大学・学部)
北米で馬診療は大事なカリキュラムの一部であり、どの大学も救急外来、外科部門、内科部門、繁殖部門を兼ね揃えています。地域によってどのような用途の馬が来院するかは違うようです。
私が今働いている病院は競馬が盛んな地域にあるため、競走馬が半数ほど、その他乗用馬も多く診る機会があります。
Q4.カナダで馬の獣医師の数は?馬の臨床獣医師の協会などはありますか?
昨年の統計によると現在、小動物も含め15,459人の獣医師が働いており、毎年新卒の1.3%の獣医師が馬獣医志望だそうです。American Association of Equine Practitioners(AAEP)という北米全体の馬の臨床獣医師協会があります。そのほか州ごとの馬の臨床獣医師会がある地域もあります。
Q5.先生が現在レジデントをされている馬の施設を選ばれた理由を教えてください。
北米でレシデントの配属先はマッチングプログラムによって決まります。
マッチングプログラムというのは、日本でも医学部などで使われているシステムで、レジデンシーの候補者と病院との最適なマッチングを作成できるように設計されています。このプログラムは、候補者に応募したい病院を(優先順位で)ランク付けするよう依頼すると同時に、病院側にも受け入れたい応募者をランク付けするよう依頼することによって行われます。コンピューターがこれらのランク付けを集計し、双方から収集した情報に基づいて候補者と病院をマッチングします。
必ずしも希望の病院に配属されるわけではないのですが、今いる大学は私の第一希望でした。
競走馬が多いことや、私のやりたい研究ができる点がこの大学の魅力でした。レジデントプログラム終了の条件として、修士号の取得も必要とされるため、臨床だけでなく、研究にも力を入れています。私の研究テーマは、外科手術前の術野消毒です。関節鏡手術においてどの消毒方法やプロダクトが手術部位感染を減らせるかを調べるため、臨床研究を行っています。
Q6.馬の治療方法について日本で未実施な検査方法や治療方法(薬剤、血液製剤)があれば教えてください。
最近では日本の馬に関する臨床技術については発展しており、北米にあって日本にない診療が多いという実感はあまりありません。
強いていうのであれば、北米にあるシンチグラフィーがstress fracture(疲労骨折)の診断や跛行診断に役立っているところだと思います。日本にも近々設置されるというお話も伺いました。
Q7.馬を診療されて印象深い出来事や、残念だったことを教えてください。
どんなに完璧な手術を行なっても、馬は手術や麻酔の合併症のリスクが高い動物です。特に印象に残っているのは、骨折のプレート固定後の覚醒中に脛骨骨折をした症例です。手術がうまく行っていただけにとても残念でした。私の病院ではMorbidity and Mortality roundといって半年に一度病院スタッフ全員で、病院で起こった死亡(安楽死)症例や、合併症について、同じ事が起こらないようにするには、どうしたら良いかを話し合うミーティングが開かれます。うまくいかなかったことを残念でしたで終えるのではなく、そこから学び、改善していくことを心がけています。
Q8.レジデントをされている馬の施設の概要(診療頭数、手術数、主な疾患、診療する馬の種類の内訳:乗馬と競走馬の比率)について教えてください。
私が所属している外科部門での診療頭数は年間およそ500から700件です。手術数は1日1~3件ほどです(写真2A、2B)。研修医をしていたケンタッキーの病院に比べると手術数は少ないですが、レジデントとして症例から学ぶにはちょうどよい症例数だと感じています。
診療する馬の内訳の50%は競走馬、その他、Britishスタイル、Westernスタイルの乗用馬が訪れます。
外科部門の他に、内科部門、救急外来部門、繁殖部門、画像診断部門、往診部門があり、それぞれの獣医師が連携して診療を行っています。
Q9.参考にされている獣医本(成書)を教えてください。
外科レジデントの参考文献として挙げられているのが以下の教科書と論文です。これらを中心に勉強しています。この参考文献が専門医試験の範囲になります。
・教科書
- Auer, J. and Stick, J. Equine Surgery. 5th ed. Elsevier, 2018.
- Nixon, A.J. ed. Equine Fracture Repair. 2nd ed. Wiley-Blackwell, 2020.
- Fubini, S.L. and Ducharme, N.G. Farm Animal Surgery. 2nd ed. W.B. Saunders Co., 2017.
- McIlwraith, C.W., Wright, I. and Nixon, A. Diagnostic and Surgical Arthroscopy in the Horse. 4th ed. Elsevier, 2014.
- Ragle, C.A. ed. Advances in Equine Laparoscopy. 1st ed. Wiley-Blackwell, 2012.
- Theoret, C. and Schumacher, J. eds. Equine Wound Management. 3rd ed. Wiley, 2017.
・論文(以下の学術誌に掲載された過去5年分の論文)
- Equine Veterinary Journal & Supplements
- Equine Veterinary Education
- Journal of the American Veterinary Medical Association
- Veterinary Radiology & Ultrasound
- Veterinary Surgery
Q10.馬の歯科疾患にどのような治療方法を実施していますか?
私の病院は二次診療施設のため、往診で対応できない症例が運ばれてきます。Minimum invasive Buccotomyや、Equine Odontoclastic Tooth Resorption and Hypercementosis(EOTRH)治療、副鼻腔からアプローチするTooth repulsionなどを主に行います。
Q11.カナダにおける有名な馬術の大会を教えてください。
私が住んでいるプリンスエドワード島では年に一度のGold cup and saucerという1週間続く競馬の大会があり、最終レースの日は祝日となります。この週は競馬だけでなく、乗馬の大会も、併設される施設で行われます。
Q12.海外(カナダ)での馬の診療を目指す学生さんにメッセージやアドバイスをお願いします。
北米は、次世代の馬専門医を育てるシステムが確立しているため、有意義に学べる環境があると思います。ほとんどの病院が見学や実習を受け入れているので、一度学生のうちに見に行ってみるのがよいと思います!応援しています!
Q13.カナダで学んだ技術(外科)を日本の乗馬界、競馬界の診療にどのように貢献したいですか?
日本国内では多くの馬の臨床獣医師の方々が努力を惜しまず診療をされており、北米と比べ治療方針の差はそれほど大きくはないと考えます。
ただ、どの国においても馬の臨床獣医師の不足は問題ではないかと実感しており、私は日本の獣医学教育の進展にたずさわれたらと思っております。
北米の大学では、学生の馬教育に力を入れており、全学生が馬診療に関わる機会が多くあります。小動物志望の学生でも、馬の疝痛対応や、応急処置はできるほどのレベルで卒業します。そこまで行かずとも、日本の馬教育を進展させ、馬の臨床獣医師を目指す学生さんが増えてくれたらと思っています。
Q14.今後取り組んで行きたい診療スキルや夢を教えてください。
専門医の試験がもうすぐ始まりますので、近況の目標としては専門医試験に受かることです。専門医試験は2段階に分かれており、2年のレジデントではPhase 1 examとして外科の基礎の問題が、3年目のPhase 2 examでは治療方針・最新の文献に関する質問が問われます。専門医試験はPhase 1、Phase 2どちらも7時間の試験時間です。将来は、外科医として競走馬に関わる仕事がしたいと思っております。
Q15.カナダで日本と異なる馬の慣習について教えてください。
北米は馬の飼育数がとても多く、ペットとして馬を飼育する方も多くいます。
大きな庭で馬やポニーを飼育している方も多くおり、馬通行注意の看板もよく見かけます。
私が働いていたケンタッキーの病院は馬専用の救急車を常備していました(写真2C)。
Q16.中前先生が働いていた米国ケンタッキー州の私立病院に馬専用の救急車が常備されていたとのことですが、どのような時にこの救急車は活動されるのでしょうか?
馬専用の救急車は、飼い主自身では輸送が危険とされた時に使用されます。獣医師と数名の看護師が一緒に出動します。Hagyardとは私が働いていた、ケンタッキーの私立病院の名前です。救急車は、この私立病院に常備されています。
Q17.馬の売買(セリ)と獣医師の診断書の関係(健康診断証明書)と重要性を教えてください。
馬の健康診断証明書は乗馬においても競走馬においても重要だと言えます。私の病院でも、馬購入後に病気が見つかり、トラブルになるケースが増えています。
私が研修医をしていたケンタッキーではKeenlandセール(競走馬のセリ)でのレポジトリー(販売申込者から提出されたセリ上場馬の「四肢レントゲン像」や「咽喉頭部内視鏡像」などの医療情報を、予め購買者に公開するシステム)も獣医師の大事な役割の1つでした。セールシーズンになると研修医は各牧場を周りレントゲン撮影・読影で忙しくなります。
またセール当日は会場にて身体検査、歩様検査、エコー、内視鏡検査等を行いました。とても責任の重い仕事でしたが、やり甲斐もありとても勉強になりました。
Q18.カナダで活躍されている日本人の獣医師がいたら教えてください。
オンタリオ州には日本人で小動物一般診療医として働かれている先生が数人おり、お会いする機会がありました。また、動物看護師として働かれている日本人の方にもとてもお世話になりました。
Q19.先生から見た馬の魅力は何ですか?
私は診療や乗馬を通して馬に教えてもらうことが多くありました。馬たちの個々の性格を理解し、忍耐や感情のコントロールを学ぶだけでなく、どのようにそれぞれの馬に向き合っていくかなど常に学ぶことばかりです。
馬獣医として、どうやって馬たちの最高のパフォーマンスを引き出す手伝いができるか考え、それぞれの馬にあった治療を考えるのが私の楽しみの1つです。
Q20.プリンスエドワードアイランドの魅力を教えてください。
プリンスエドワード島は、カナダ大西洋に位置する人口15万人ほどの小さな島です。島は隣の州と橋で繋がっており、車での移動が可能です。病院に運ばれて来る症例のほとんどはこの橋を渡って島外から来院します。海辺には多くのカフェやレストランが並び、とても可愛らしい街並みです。シーフードがとても有名で、ロブスターシーズンには州外から多くの観光客が訪れます。仕事に疲れた時はよく、海辺の風景を見て息抜きをするようにしています(写真3)。
編集後記
広いカナダの国土の中で、獣医大学は5校と少ない。その1つであるプリンスエドワードアイランド大学の獣医学部で馬の外科のレジデント(専門科研修医)をされている獣医師の中前陽子先生にインタビューを実施しました。
中前先生は、大動物のレジデントプログラムが日本には存在しなかったため北米に渡ることを決意され、大学卒業後、2018年にプリンスエドワードアイランド大学に1年間の長期実習に訪れ、その翌年に正式に有給のインターン(研修医)として働くことになりました。
その後、カナダのゲルフ大学、ケンタッキー州にある私立病院ハグヤードで外科のインターンをした後、今いるプリンスエドワードアイランド大学で外科のレシデントを始められました。
今回の取材でわかったのですが、北米でレシデントの配属先はマッチングプログラムによって決まり、必ずしも希望の病院に配属されるわけではないシステムなのですが、今いるプリンスエドワードアイランド大学は中前先生の第一希望の大学でした。
今後、プリンスエドワードアイランドという素晴らしい環境下において、専門医の試験に合格されることを祈念しています。
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シリーズ「日本の競馬界の未来を切り拓く獣医師」