JVMNEWSロゴ

HOME >> JVM NEWS 一覧 >> 個別記事

■日本の競馬界の未来を切り拓く獣医師(1) JRA競走馬総合研究所

2023-10-31 16:36 | 前の記事 | 次の記事

山中隆史先生(右)と筆者。後ろの馬は、JRA総研サマースクールなど学生を対象とした研修での注射技術実習などに使用するカナダ製の馬の模型。

A:トレッドミル運動負荷試験-馬用トレッドミルを用いた運動中の呼吸循環機能の測定(画像提供:JRA競走馬総合研究所)/B:2021年6月に国際獣疫事務局(WOAH)より、馬用インフルエンザのリファレンス・ラボラトリーの指定を受けた/C:屈腱炎に対する幹細胞移植治療(画像提供:JRA競走馬総合研究所)

インタビュアー・構成・執筆 伊藤 隆

動物医療発明研究会 広報部長/獣医師

今回よりJVM NEWSとして日本の競馬界を支える獣医師の先生方を紹介していきます。

第1回目は、競走馬のスポーツサイエンスを究め、競馬の発展と競走馬の未来に貢献して行く日本中央競馬会競走馬総合研究所(JRA総研)を訪ね、企画調整室 室長の山中 隆史先生(写真1)にお話をうかがいました。

Q1.JRA総研の各部門における主な研究や業務内容、アピールポイントは何でしょうか?

栃木県下野市にある本所の部門は、企画調整室、総務課、4つの研究室(運動科学研究室、臨床医学研究室、微生物研究室、分子生物研究室)に分けられ、その他に現役競走馬のリハビリテーションを専門とする日本で唯一の施設の競走馬リハビリテーションセンターである常磐支所(福島県いわき市)があります。

・企画調整室~競馬、競走馬、研究者、すべての向上のために~

企画調整室は、研究部門を統括し、研究計画の立案、調査研究の対外的な調整、研究成果の公表を中心に行っています。

また、獣医師や獣医系学生を対象とした講義、実習、競馬ファンや競馬関係者向けの各種講習会の開催、日本ウマ科学会の運営など、幅広く馬産業の発展に貢献しています。

更には、国内外の研究に関する情報や資料の収集・保管、各種刊行物の発行、ホームページの管理・運営なども行っています。

・運動科学研究室~競走馬のパワーをより高めるために~

運動科学研究室では、心臓や肺などの酸素運動能力(写真2)や筋肉のトレーニング適応に関する研究、走行フォームや筋活動などを解析するバイオメカニクスに関する研究を主に行っています。これらの分野の研究を総合的に行うことで、競走馬が速く走ることができる仕組みについて明らかにし、科学的に裏付けられたトレーニング法や怪我や熱中症を起こす要因や予防法などについて提言しています。

・臨床医学研究室~すべての競走馬に最高水準の医療技術を~

臨床医学研究室では、競走中あるいは調教中に発症する競走馬の様々な疾病の診断法、予防法、治療法の開発に関する研究を行っています。これらの研究活動を通じ、疾病を発症したすべての馬を競走復帰させることを最終目標としています。

そのため、当研究室に所属する専門分野は外科、内科、スポーツ医学、リハビリテーション医学、麻酔学、臨床薬理学、臨床疫学、臨床統計学など多岐に亘ります。

これまでも、JRA栗東、美浦トレーニング・センターや競走馬リハビリテーションセンターに所属する臨床獣医師と連携し、多くの研究課題に取り組んできました。

・微生物研究室~病原体に対する終わりなき戦い~

微生物研究室では、細菌、真菌、原虫、および寄生虫を原因とした馬感染症について、病原微生物学的および病理学的研究を行っています。得られた情報は、馬感染症の診断・治療並びに感染予防に役立てられます。

また、馬感染症に対する病性鑑定も重要な業務であり、トレーニング・センターや競馬場および馬産地などで発生した伝染病に素早く対応できる体制を整えています。

・分子生物研究室~見えない脅威から馬産業を守る~

分子生物研究室では、馬のさまざまなウイルス性疾患を対象に、疫学調査、診断法の開発、予防や治療に関する研究を行っています。とりわけ、馬産業に大きな被害を与える馬インフルエンザとウマヘルペスウイルスⅠ型感染症(馬鼻肺炎)の防あつに直結する研究を精力的に取り組んでいます。

そのほかの研究対象としては、子馬の主な下痢症の原因である馬ロタウイルス感染症や、馬コロナウイルス感染症、ゲタウイルス感染症などが挙げられます。

また、当研究室は2021年6月より、馬インフルエンザの国際獣疫事務局(OIE、現在はWOAH)のリファレンス・ラボラトリーに指定されています(写真2)。

Q2.特に力を入れている研究テーマには何がありますか?

浅屈腱炎治療の為の幹細胞移植(写真2)、UTC (Ultrasound Tissue Characterization)などの新しい診断機器による浅屈腱炎の治癒状況の把握およびそれに基づくリハビリテーション法の確立、WOAHの馬インフルエンザにかかるリファレンス・ラボラトリーとしての活動、馬増殖性腸症(ローソニア・イントラセルラシス感染症)の豚用ワクチンの馬への適応拡大、抗菌薬により変化した腸内細菌叢の早期回復法の開発などがあります。

Q3.馬における幹細胞移植による治療は世界的にどのような状況でしょうか?

ヨーロッパの動物薬メーカーであるBoehringer Ingelheim Vetmedica GmbH社が、「RenuTend」という名前で商品化しているようです。これは、現在のところ、世界で唯一、薬事当局から馬用に薬事承認されている唯一の幹細胞由来の薬剤でしょう(日本では未承認)。

研究レベルでは、当研究所も含めて、世界中のあらゆるところで行われているのではないでしょうか。

Q4.馬増殖性腸症(ローソニア・イントラセルラシス感染症)に対する豚用ワクチンの馬への適応拡大ですが現在どのような状況ですか?

日本のBoehringer Ingelheim社と共同で研究をしており、現在GCP試験を実施中です。この研究は、生産地からの要望も強く、JRAとしましても鋭意取り組んでいる課題です。2026年の承認を目指しています。

承認されると世界初の馬増殖性腸症に対するワクチンとなります。

Q5.抗菌薬により変化した腸内細菌叢の早期回復法の開発は、どのようなことを目指しているのでしょうか?

大腸(盲腸や結腸)に常在している細菌は重要であり、腸内細菌叢が変化する事により出血性大腸炎(サルモネラやクロストリジウム属)を引き起こす原因となります。

次世代シークエンサーによって必要な腸内細菌叢を分析し、今後、糞便移植による早期回復方法を検討しています。

Q6.今までのご経歴の中で、印象深い出来事&残念だった研究成果等を教えて下さい。

1番目は、2007年の馬インフルエンザの流行対応です。

2番目は、WOAHにおけるワクチン株選定会議等の国際会議で日本側の意見を通せたときです。

3番目は、東京2020オリ・パラにおけるバイオセキュリティー・マネージャーとして参加中に、日本の野外では初となる馬ピロプラズマ症に遭遇し迅速に対応できたことなどです。

Q7.2007年の馬インフルエンザの流行により競馬開催ができない日があったと思いますが、競馬開催ができないことによる「経済的な損失」は1日どのくらいになりますか?

経済的な影響を試算することは、単なる馬券の売上だけで考えられるわけではないので大変難しいですが、1日当たり、数百億円以上の損失になりうるのではないでしょうか。

また、例えば生産に焦点を当てて考えますと、生産者の方々はダービーなどの3歳時のクラシック競走に向けて、数年前の交配の段階から計画的に準備を進めておられるわけですから、仮にそれら競走がキャンセルされることは、単に金銭的には計り知れない損失の発生につながると思われます。

さらには、生産者の方々だけでなく、競馬の掲載記事を取り扱っている新聞社の方も急に競馬開催が中止されるとなると、割り当てられている紙面が突然白紙になるのですから、こういった観点へのネガティブな影響も無視できません。

Q8.WOAHにおけるワクチン株選定会議等の国際会議で日本側の意見を通せたときとは、どんなことをなされたのでしょうか?

会議の流れが適したワクチン株を遺伝子系統樹だけで変更される方向に傾いていた時に、血清学的に解析した抗原性状をもって変更する必要がないことを主張し結論を変更させたことです(あくまでも遺伝子は遺伝子であり表現型とは異なる。実際のワクチン効果という表現型とは、抗原性状のことである)。

Q9.東京2020オリ・パラにおけるバイオセキュリティー・マネージャーとして参加中に、日本の野外では初となる馬ピロプラズマ病に遭遇し迅速に対応したとのことですが、2007年の馬インフルエンザの教訓を生かされたのか、あるいは馬ピロプラズマ病の発生の予測があらかじめできていたのでしょうか?

2007年の馬インフルエンザの教訓は生かされたと思います。

その理由としては、東京2020では、風土病的に馬ピロプラズマ病が流行している欧州から多くの馬、そしてその中には既感染の馬も来日しますので(本症は持続感染する)、馬術競技会場内での馬ピロプラズマ病の診断体制の充実が必要であると考えていました。

そこで、人のマラリア(馬のピロプラズマ病に近い住血原虫による疾病)の診断装置を馬ピロプラズマ病診断用に改変させて、大会会場内の検査室に準備するようあらかじめ指示をしており、そのことが大いに役に立ちました。

国際的な疫学等も含めて、事前の情報収集だけでなく、そしてそれらを個人の頭の中だけではなく、実践する調整が重要と思われます。

Q10.JRA総研でご苦労された点は何ですか?

研究者生活を終えた振り返りとなってしまいますが、すべてが苦労ではなかったと思います。

苦労という訳ではありませんが、インフルエンザとバクテリアとの共生について研究を始めようとしていたのですが、時間的な問題もあり、予備検討の段階で途中に終わってしまったことが心残りです。

Q11.検査・分析機器・検査器具、馬用医薬品等について、今後の要望はありますか?

ほぼ海外で馬にメジャーに使用されているものは、すでに適応外処方として日本でも多くが使われています。しかし、適応外処方の場合、JRA獣医師以外の獣医師(例えば、生産地)が使用する際には助成金対象にならないことが問題です。その典型が、上述の馬増殖性腸症ワクチンです。

Q12.JRAの他の施設【常磐支所(競走馬リハビリテーションセンター)、栗東トレーニング・センター競走馬診療所、美浦トレーニング・センター競走馬診療所、競走馬理化学研究所】との連携を教えて下さい。

それらすべての事業所との連携は日常的なことです。例えば下記の研究や業務があります。

  • 常磐支所⇒幹細胞移植の実践
  • 東西トレーニング・センター⇒様々な病性鑑定(感染細菌の同定・薬物感受性検査など)
  • 競走馬理化学研究所⇒薬物動態学研究

Q13.東西トレーニング・センターからの様々な病性鑑定がありますが、感染細菌で多く同定される菌は何でしょうか?

呼吸器感染症由来の細菌でStreptococcus equi subsp. zooepidemicusが分離されることが多いです。馬の呼吸器感染症は、扁桃などの上部気道の常在菌が、調教や輸送などに起因するストレスに伴って日和見的に発症することがほとんどと思われます。

Q14.JRA総研の獣医師の先生方が加盟または参加されている国内外の主な学会について教えて下さい。

私の場合、日本ウイルス学会(2023退会)、日本獣医学会(2023退会)、日本ウマ科学会(事務局)、International Society of Influenza and Other Respiratory Virusesに加盟しています。

Q15.今後の目標や抱負について教えて下さい。

現在、競馬産業が持続的に発展できるかの節目にあると思います(人口減少や動物福祉の観点等から)。今後も競馬を通じて、人と動物の良好な関係のロールモデルを示していけるような獣医師でありたいと思います。

Q16.女性進出の観点からお尋ねします。JRAに勤務されている女性獣医師さんの割合はどれくらいですか?

JRAの役職員は現在約1500名おり、その内、約10%が獣医師資格を有していると思われます。その中で女性獣医師は、その約10%といった状況です。

Q17.日本の競馬界は、世界の中でどのような位置づけでしょうか?

日本は、競走の高い品質が評価され、国際セリ名簿基準委員会が定めるPart1国となっており、また、実際の日本馬の競走結果からも世界の競馬先進国と呼ばれる欧米諸国に全く引けを取らない評価を受けています。

Q18.JRA総研に就職を希望する獣医大生に向けてメッセージや学生時代に実施すべきことへのアドバイスをお願いします。

毎夏に、原則、学部5年生を対象としたサマースクールを実施(感染症コース・臨床コース、それぞれ12名程度1週間)しているので応募をお願いします。

JRAを希望する人材には、高いコミュニケーション能力が求められます。そのひとつの理由としては、調教師さんや厩務員さんなどの利害関係者からの要望に耳を傾ける能力が必要だからです。また、当該馬の出走が可能かどうかという場面においては、それを判断する能力とともに、コミュニケーション能力が問われます。

編集後記

今回、日本の競馬界の未来を切り拓く獣医師の第1回目として、JRA総研を訪問しました。JRA総研は、企画調整室、総務課、4つの研究室の力が総合的に結集して、日々、競走馬に対して科学的な側面で対応を行っていることと、取材を通じて、競走馬の強さには理由があることが良くわかりました。

また、取材を通してJRAに勤務されている女性獣医師の先生方の割合が思っていたより多く、女性の進出が進んでいることが感じられました。獣医の学生さんへの対応としてサマースクールを実施しており、研修の中で動物の福祉の観点に配慮した、馬の模型を使用した注射技術などの実習をしていることはとても印象的でした。

今後、トレーニング・センターや現役競走馬のリハビリテーションを専門とする日本で唯一の施設である競走馬リハビリテーションセンターを機会があれば取材して行きたいと思いました。

動物医療発明研究会は、会員を募集しています。入会を希望される方は、「動物医療発明研究会」まで。