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■新刊『イルカと生きる』

2024-09-30 18:05 | 前の記事 | 次の記事

『イルカと生きる』

まずは著者のプロフィールを紹介する。1937年生まれ。東京大学卒業後、日本捕鯨協会鯨類研究所研究員、東京大学海洋研究所助手、水産庁遠洋水産研究所鯨類資源研究室長、同外洋資源部長、三重大学生物資源学部教授、帝京科学大学理工学部教授などを歴任されている。日本を代表する鯨類研究者である。

本書の紹介者(松本 晶)は、鯨類の種名がまったくわからない。日本近海にどんな種類が生息しているのかもよくわかっていない(ホエールウォッチングツアーに参加したことがあるのに)。陸棲の哺乳類に比べると、どうも身近ではないと感じる。そんな紹介者が手に取ってしまった1冊である。

本書の主構成は以下の通りである。

第1章 鯨類の歴史-陸から海へ

  1. 先駆者と追従者
  2. ムカシクジラ類-最初の鯨類
  3. ヒゲクジラ類とハクジラ類の分化
  4. ヒゲクジラ類の歩んだ道
  5. ハクジラ類の歩んだ道

第2章 日本の鯨学の始まり

  1. イルカとは-動物学以前
  2. 動物学者の視点

第3章 イルカのすむ海

  1. 日本周辺の海流構造
  2. 海水温
  3. イルカの好む環境

第4章 スジイルカ-暖流系の代表種

  1. 日本のイルカ漁
  2. スジイルカ資源の研究と西脇昌治氏
  3. 意外に緩やかな生活史
  4. スジイルカの社会構造と生存戦略
  5. 失敗したスジイルカの資源管理

第5章 イシイルカ-寒流系の代表種

  1. 二つの主要体色型といくつかの個体群
  2. 疾風の生涯-ネズミイルカ科の通例
  3. イシイルカ漁業の盛衰

第6章 ゴンドウクジラ類-母系社会に生きる

  1. 日本近海の種-大村秀雄氏の疑問
  2. マゴンドウとタッパナガ-コビレゴンドウの二型
  3. コビレゴンドウの生活史と生存戦略
  4. ヒレナガゴンドウ-北太平洋では絶滅

第7章 ハクジラ類の社会と高齢個体の役割

  1. 老齢期を生きる雌
  2. ハクジラ類の繁殖戦略-雌雄の違い
  3. ツチクジラの不思議な社会-雌雄があべこべ

第8章 壱岐のイルカ騒動-イルカといかに生きるか

  1. 壱岐のイルカ騒動と私
  2. 壱岐周辺の漁業生物と人間活動
  3. イルカ被害対策とその教訓

書名に「クジラ」や「鯨類」ではなく「イルカ」が使われているが、内容は日本近海で見られる小型鯨類の解説である。教養として鯨類の知識を得るには最適の書となっている。

本書には図表が一切用いられていない。文章のみで解説されていく。一般向けとはいえ、このような専門分野の書籍では、稀なことである。それゆえにわかりやすい文章は必須であり、それに十分に応えている。

特に興味深かったものは、繁殖や子育てについての研究成果に関することで、驚くものばかりであった。例えば、スジイルカは50代でも妊娠し妊娠期を終えた老齢期といえる期間はないことや、ツチクジラで雄が育児のために長寿であることなど。繁殖や哺乳・泌乳の期間や役割は種によって異なっていることがたくさんある。鯨類の研究では、研究者が捕鯨船に乗り込み、解剖によって得られるデータはとても充実しているようである。推測する部分もあるのだろうが、群れの調査や季節移動のこともとてもおもしろいものであった。

生息数はどうやって調べるのだろう。恐らく目視でカウントするのだろうが(現在は画像解析であろうか)、その調査法の詳述がなかったことは残念である。

筆者の研究に携わっていた時期では、日本でのイルカの突きん棒漁など、イルカ漁と研究者は無縁ではいられない。「第8章 壱岐のイルカ騒動-イルカといかに生きるか」では、事の顛末がよくわかる。書名と似たサブタイトルが、本章には付けられている。筆者のイルカへの愛、共生への思いが伝わってくる章となっている。

また、著者の研究を手伝う学生として光明義文氏の名前が出てくる。光明氏は本書の編集者であり、恩師の業績を一般向けの書籍にまとめたものが本書である。一編集者として、そういった師に出逢えたこと、本にまとめることができたことは、うらやましい限りである。

なお、本書を読んでいる最中の新聞でイルカの記事が目に留まった。2024年9月3日の東京・御蔵島村のイルカとの共生に関する記事と9月19日の瀬戸内海で松山海上保安部の巡視艦がイルカの群れと近接した記事である。両記事とも朝日新聞夕刊。また、夏の海水浴でイルカに咬まれた事故があったなと、検索してみた。何れも種名は記されていなかった。紹介者(松本)が鯨類の種名に無知であったのは、報道にも一因があるのでは、と勉強不足を少しばかり他人のせいにして文を締めくくる。